前編はこちら。
ピークハントから帰国までの超長い1日
Pendant hut (3:00) 〜 Sayat Sayat Check Point (3:50) 〜 Mt.Kinabalu Summit (Low's peak) (5:30) 〜 Pendant hut (8:10) 〜 Timpohon gate (13:00)
短い夜が明けた。小さいけど壁の中をコツコツと叩き続ける音が気になって3時間ほどで目が覚めてしまい夢うつつの中で惚けていた。眠れない夜などない相方も珍しく眠れなかったようだ。まるで不安を掻き消すように小さな声でしょうもない話をし続けた。
午前3時、サミットアタックへ出発
用意された軽食を取り、小屋前でガイドと合流してサミットアタックに出発する。
初めの1時間弱は背の低い樹林帯を抜けていく。
ある程度標高を上げてくるとちょっとした鎖場(ロープ場?)が出現する。ロープは必要ないスラブなんだが、郷に入っては郷に従うタイプなので大人しく隊列の後ろに付いていく。日本の鎖と違って海外では腕ほど太いロープが主流。
これらは登るための補助というよりはガスった時の道迷い防止の意味合いが大きいらしい。山頂直下はサミットプラトーと呼ばれる、かつて氷河に削られた大きな一枚岩の台地であり、視界の効かない時に正規のルートを歩くのは困難だと容易に予想できる。
Sayat Sayat Check Pointを通過
1時間ほどで標高3700m付近のサヤサヤチェックポイントに到達する。
ここで入山時に発行されるIDカードを提示しチェックを受ける。
僕たちが下山する時も登山客がバンバン通過していたから時間制限をしているとかではないっぽい。
ここにはサヤサヤハットという小屋があるが現在は使われていない。この付近から始まるビアフェラータコースを利用する登山客のためにかつて使われていたらしい。現在は緊急避難的な利用のみ。
ここで小休止し、また標高を上げていく。ここからはスラビーな岩の斜面がメインで樹林は一切なくなる。
小雨が降り出した。ガイドのオッチャンは『お前が着たいなら、俺も着るけど、どう?』と言い出した。どう?じゃねーよ。レインを着た。オッチャンは煙草吸ってた。
いよいよ標高4000mの大台へ
雨はすぐ止んだ。
標高3000m台で最後の休憩地となるポイントの看板。
結構寒くてここからは化繊のインサレーションを着っぱなし。
なぜここで記念撮影したかは分からない。多分高山病で頭おかしくなってたんだと思う。
この辺からは結構な人がいて山頂直下は休日の原宿タピオカ店ばりの行列になっていた。
Low's Peak 4,095m に登頂
午前5時半、キナバル山の主峰(?)であるロウズピークに登頂。
山頂標識には世界遺産ロゴもしっかりと刻まれている。
ガイドのオッチャンは、日本の登山ガイドのようなホスピタリティは持ち合わせていないので、カメラを持ってハイチーズなんてサービスはない。俺は下がったところにいるから2人で勝手に撮って来いよな、って顔をしながらこっちを見てる。
記念撮影を終え、山頂から少し降りたところで日の出を待つ。
相方のスピードには遅れがちだけど、一晩で身体はだいぶ低酸素に慣れた模様。
とはいえSpO2自体は標高3300m付近の小屋にいた時とあまり変わっていない。
文献はまだ読んでいないのでいくつか仮説を立てた。
小屋でアホほどコーヒーを飲んでいたので利尿作用で細胞浮腫が取れて高度障害が緩まった可能性がある。高山病でアセタゾラミド(ダイアモックス)飲むよね。やってる事はあれと同じなんじゃないのかな。ヒマラヤでも高度順応で紅茶をガブガブ飲んでは利尿で出すっていうし。
または、まさに慣れるという表現が正しいように、低酸素を感じるどこかの受容体がdown regulation して刺激を感じなくなる事で身体の気だるさが消えたのか。
まあ、エビデンスのない戯言なので話半分程度に聞いてもらえるとありがたい。チラ裏推奨です。
夜が明け、様々なピークが顔を出す
谷側から雲がバカスカ湧いてきた上に高曇りで残念ながら最高の景色とはいえなかったが、奇抜な形の岩峰ピークが次々と姿を現してきてとても興奮した。あれはここから登れる、あっちは僕には無理そう、なんて望遠レンズを覗きながら延々とやっていたら相方には呆れられた。
セントジョーンズピーク、右の影になっている面が人の顔に見えるらしい。画面から50cmくらい離れて目を思いっきり細めたら見えるかもしれない。心霊写真と同じ理屈である。
旅行社のパンフレットなどでよく見る光景。
この台地がサミットプラトーと呼ばれている。余りのデカさに感覚狂いがマッハで人がゴミのようだ。わはは。
こちらはロウズピークの裏にあるピーク。
みんな見ていなくて可哀想なので写真に収めてあげた。
ドンキーイヤーズピークとは日本でいう『ロバの耳』で右側の双耳峰がそれ。数年前の地震で片側が崩壊してしまったらしい。トレッキングコースで歩いていける。
これは相方が撮影した『どうしても標高4,000mで顔面倒立してバエる写真を撮りたいチャイニーズな姉さんと構図が悪く何度も撮り直しを要求される可哀想な僕』の写真。
世界は広い。
標高差2,200mを一気に下りる
山頂到着以来しばらく姿を消していたガイドのオッチャンが痺れを切らせて様子を見にきたので渋々下山を開始する。っていうかあなた今までどこにいたの?
ご来光目当てではない登山客たちがバンバン上がってくる。
サヤサヤチェックポイントで野垂死にかけてる欧州人がいた。ふと足元を見ると日本冬山登山界のプリウスこと、スポルティバのネパールエボ。正気か。ここは熱帯ぞ。
『4,000m級だけど熱帯』だし、みたいな『熱々のアイスクリーム』的な矛盾感を醸し出しているせいでウェアなどは選択に困ると思うが、基本的に日本の3000m級に夏山に準ずるものという認識で良い。
寝袋などスリーピングギアは不要。僕は今までに小屋泊をしたことがなかったこともあり、アレルギー体質で不安なので夏用シュラフを持参して、小屋ではそれを使った。
樹林帯からスラビーな岩場まで多彩で長い距離を歩くため、シューズはシャンクの強い登山靴よりはソールが柔らかくグリップが優れたアプローチシューズが良いと感じた。歩荷やガイドのオッチャンたちはナイキのスニーカー履いてるし、多分なんでも良い。
雲海に突っ込み、標高をガンガン下げていく。
朝食は小屋で
8時過ぎに小屋へと戻ってきて、オッチャンと下山開始時刻を9時に約束。
小屋の前の喫煙所でオッチャンと煙草でも吸おうかと思った矢先、周りを見渡しても居ない。まるで煙草の煙のようにすぐに消えてしまう。キナバルか煙草の精霊なのかもしれないな。
撤収のパッキングの後に朝食をとる。
サミットアタック前の食事はトーストとコーヒーだけだったが、戻ってきてからの食事はしっかりと用意されている。ここから登山口までさらに高低差1,500mを下る必要があるのでしっかりと食べておきたい。
下山した足でそのまま空港に移動
予定通り9時に下山開始して、ラスト1時間はスコールにやられながらも13時にTimpohon gate まで降りてこれた。ちょうど乾季の終わりだったので、オッチャンは恵みの雨と言っていた。
ここでツアー会社のバンがゲート外で待機しており、すぐにPark Head Quarterへ移動。登頂証明書をもらい、ここでオッチャンとは涙無しに普通にお別れした。
相方が為替計算ミスって信じられないくらい高額なチップを渡した。
その後は予約してあった近隣の中華料理屋へ。疲れからかあまり記憶にないが、量が多すぎてかなり残してしまったと思う。食事をかき込んで息つく暇もなく空港へ。行きと同じドライバーだったが、身体の疲労感がイニDばりの荒い運転も心地よく思わせた。
しかし途中の国道でパンク。
フライトに間に合わないことが頭を過るが、ドライバーはすぐに代替車を呼ぶという。この代替車のドライバーがハンパじゃなかった。イニDどころではない、もはや一般道で湾岸ミッドナイトだ。しかもスコール降り続いてんの。わかる?路面見えないほど水の浮いてる一般道の路面を他の車を煽りながら100km/h以上で走られた時の僕の気持ちを30文字以内で書きなさい。
しかしマレーシアの悪魔のZは無事に空港まで送り届けてくれた。当たり前のようにチップは少なめにした。
日本へ帰国
行きとは違い、帰りはクアラルンプールでトランジットが必要だった。
19時の便でコタキナバルからクアラルンプールへ。21時40分着から23時35分の成田便まで時間が空いたので、腹が減ると逆ギレするタイプの相方とこれまたモリモリとビリヤニを食べた。
翌朝7時15分に成田空港へと帰国し、初の海外遠征登山は終わった。
初めて体験した登山形式を振り返ってみて
初海外遠征登山で初の4000m峰に無事登頂できたが、体の奥底から湧き上がってくるような感情は特になかった。現実はそんなもんだ。山に登るたびに人生変わってたら、たまったもんじゃない。
でも日本では体験できない山に対する文化的な違いや景色、人との関わり合いができて本当にいい経験になった。
特別な技術も装備も必要なく、日本国内から山頂まで若干3日で行けてしまうという圧倒的コスパの良さを持つので興味がある人には是非訪れてほしい。
しかし、良い子のみんなは下山と帰国日を別に設けてゆとりのある旅にしましょう。
僕たちは下山で疲れ果てて空港で不満をぶつけ合い謎タイミングで大ゲンカしました。
そういうわけで、空港で食ったカオマンガイの味は全く記憶にございません。